こんにちは! 物語屋のひっひーです。今回は日本文学史にその名を残す谷崎潤一郎の名作『春琴抄』についてご紹介します。
『春琴抄』ねえ、名前はくらいは聞いたことあるけど、どういう話かは知らないなあ。
そんな方には必見の内容となっています。この記事を読めば『春琴抄』がどんな話なのかがざっくりとわかります!
『春琴抄』については近々(といっても時間は掛かるかもしれませんが)ひっひー独自の視点で新説を発表しようと思っていますので、ここで『春琴抄』に興味を持たれた方はぜひその物語に触れてから、僕の新説を見て納得するなり批判するなりしてください!
谷崎文学の名作を一緒に読みたい方はこちら↓
簡単な紹介
谷崎文学といえば独特の文体が特徴的です。殆ど改行がなく、ページの中にびっしりと文字が敷き詰められている。しかも句読点があったりなかったり……。
読みにくっ
思わずそう声を上げてしまいます。ですが慣れればそれも味わい深くなっていきます。まあ、もちろん何百ページも文字がびっしり敷き詰められていたらさすがに吐き気を催しますが(笑)
春琴抄はページ数で見れば100ページに満たない長さです。
ふむふむ、じゃあさくっと読めそうだな。
ですが谷崎文学です。すらすら読める作品ではありません。しかも『春琴抄』は語りが独特なんです。現代一般的な、皆さんがよく触れている小説なら、主人公がいて、その主人公の視点で物語が語られていきます。
『春琴抄』というのは、「私」という語り手が『鵙屋春琴伝』という30ページほどの小冊子を手に入れ、それに記された漢文の物語を「私」が読み下し、なおかつ「私」の推測や解釈を交えて語られるという二重構造になっています。
どういうこと??? と多くの方は今クエスチョンがたくさん頭の上に浮かんでいると思います。放り出すわけではありませんが、他に説明のしようがないのです。
とにかく『鵙屋春琴伝』に書かれた文章の書き下しとそれの解説、そして「私」の想像と解釈で物語が語られるので、回想形式を取っているとも言えます。それに鴫沢てるという女中から聞いた話も交えて語られます。
読みにくい。それは間違いないです。ですが物語の筋を知り、谷崎潤一郎の絶対美の世界に触れたが最後、あなたはこの本を手に取らずにはいられません。
美しい、究極の愛。それを谷崎の独特な文体と言い回しで読まなければ、脳は満足できなくなります。これぞ名作! 傑作文学です!
それでは主人公春琴とその奉公人佐助の美しき暗黒世界を見ていきましょう。
あらすじ
春琴こと鵙屋琴は頭脳明晰、容姿端麗で、舞をさせれば生まれ持った天賦の才が備わっており、舞妓さんも見上げるほどでした。勉強に関しても、少し学ばせるだけで二人の兄を凌駕するほどで、その聡明ぶりがわかります。
そんな琴ですが、九歳の頃に失明し、盲目となります。そんな琴の目となり生活を手伝っていたのが、鵙屋に丁稚奉公に来ていた温井佐助です。佐助は琴の四歳上でしたが、琴は主家の令嬢であり、佐助としては頭が上がりません。なので琴に命じられるまま、生活を手伝っていました。トイレに行くのも体を洗うのも佐助の役目の一つでした。
その中に、靭の三味線道場への伴というものがありました。琴は失明前は舞の名手と言われていましたが、失明後は三味線や琴を始め、やはりそちらでも素晴らしい才能を発揮しました。
その伴をするのは佐助だけでなく女中が行く時もあったのですが、ある日琴が「佐助どんにしてほしい」と言ったのをきっかけに三味線の伴は佐助の専任となりました。ですが佐助は何をするわけでもなく、ただ黙って琴の手を引いていただけでした。
佐助は春琴の稽古が終わるまで隣室でじっと待っており、そのため何曲かはいつしか記憶していまい、自ら三味線を買って夜な夜な襖の奥でこっそり練習していましたが、それが琴の母にばれてしまいます。
一人稽古に勤しんでいたことを知った琴は佐助の腕前を見たいと言って一同の前で演奏させ、その腕前を認めて自分の弟子に取ると言います。その日から、琴と佐助は主人と丁稚の他に師弟の関係を結びました。
これを大人たちは子供たちの遊び程度にしか思っていませんでしたが、琴の稽古は過酷極まりなく、佐助が思うようにできないでいると撥を投げつけるなど暴力を振るい、しかし佐助はそれに黙って耐えていました。
そんなある日、琴のお腹が大きくなっていることが判明し、琴の両親は佐助との子供だろうと思い二人を結婚させようとしますが、琴はそれを頑なに認めず、挙句佐助と結婚など考えられないとまで言い放ちます。生まれてきた子供は佐助そっくりでしたが、琴がそう言うので佐助も白を切り、生まれた子供は他家へと養子に出されてしまいます。
その後琴の三味線の師匠がなくなると、琴は独立して自ら三味線道場を開きます。この時琴は師匠だった春松検校の一字をもらい受け、春琴と名乗ります。春琴は技量もさることながら、その美貌で話題となり、弟子は日に日に増えていきました。
ですがある時、春琴の嗜虐性をよく思わなかった者が賊となり寝床に押し入り、春琴の顔に熱湯を浴びせかけます。春琴は大火傷を負い、すぐに駆け付けた佐助によって手当がなされますが、春琴は爛れて醜くなった顔を佐助に見られたくないと言って、包帯を取ろうとしません。
佐助は「見られたくない」という春琴の願いを叶えるため、針で自分の目を突き刺し――。
究極の愛の形
あらすじの最後の一行を見て、「えっ……」と思った方もおられるのではないでしょうか。春琴の醜い顔を見ないために自分の目を刺すって、正気? と。
僕も初めて読んだ時は「なにー!」でした(笑)いかれとる、と。しかも佐助は春琴と同じ暗黒世界に入ることができて無常な喜びまで感じているのです。
好きな人がいて、彼女が盲目で、大火傷を負って、こっちを見ないでと言われても、「わかった、見ないようにする」としか答えられませんよね。こっち見ないでと言われて「わかりました。じゃあお師匠さんを絶対に見ないように僕の目を見えなくします! 今から針で目ん玉ぶっ刺しますよ~」とはなりません……。
でも佐助はそうなるんです! これはもう愛を超えた究極の愛としか言いようがありません。しかも春琴という女性は確かに容姿端麗の上品な女性ではあったし、作中では盲目であるがゆえにある種神秘的な存在でもあったと書かれていますが、弟子の佐助からすれば大パワハラ師匠です。その人のために、自分の目をぶっ刺すんです。
これはもう、第三者の介入を許さない二人だけの「絶対美」としか言えません。たとえどんな理論を並べても、どの方程式を当てはめても、佐助の出した答えにはたどり着きません。
でも、恋愛って意外とそういうこと多くないですか? この娘は可愛いけど、貢がされるだけ貢がされて切られるだろうな、たぶん尻に敷かれることになるだろうな、この男はクズだな、搾取されるかもな……でも、好き! みたいな……。
こういう恋愛をする時、友人に相談したら、絶対に「やめとき」と言われますよね。でも皆さん、当事者だったらどうします?
彼女が好きだから、彼はあたしがいないとだめだから……そんなふうに言って、自分の道を行きますよね。
まあ、佐助の場合はそういう恋愛とは少し違うかもしれませんが、言ってみれば、目をぶっ刺す動機としては単純に考えればそれと同じだということです。
春琴と佐助は結局結婚はせず、二人とも生涯独身を通しましたが、佐助はどれだけ三味線の腕が上達しても独立せず、春琴が亡くなるまで弟子であり続けました。春琴が亡くなった後独立して検校となると、彼は後世名を残す三味線の大家となりました。
佐助は春琴の死から二十年ほどして息を引き取りますが、佐助は家族の墓に入るのではなく、春琴の墓の傍に埋葬してほしいと言い残し、今も春琴の墓の傍でこぢんまりと侍ています。
そんな師弟愛、男女愛が描かれるのが『春琴抄』であり、愛する師匠のために目を潰し、愛する人の世界を見て喜びを感じる、たとえ人生を棒に振ってでも……それは佐助個人の究極の愛でもあり、人間の恋愛の根底にある、かもしれない究極の愛の形と言えるかもしれません。
春琴と佐助の歪な愛を肯定するのも否定するのもあなたの自由です。ですがこれだけは約束してください。僕の記事を見て判断するのではなく、谷崎の書いた、二人の物語をその文体で読み、絶対美の世界を感じてから、考えてみてください。
僕はどちらかというと、肯定派です。ロマンチックだなあと思ってしまいます。絶対に自分ではやりませんけどね(笑)
おわりに
最後まで読んでいただきありがとうございます!
文豪の作品は読む人によっていろいろな解釈ができる、それが魅力であり、文豪の名作たる所以です。今回ご紹介した『春琴抄』は紛れもなく文豪谷崎の名作です。
作品が発表されてから九十年が経つ『春琴抄』。すでに多くの研究がされており、定説が根付いている『春琴抄』ですが、僭越ながらこれまでの体系的春琴抄研究に一石を投じるべく、現代的感覚を交えた新説を発表したいと考えています。
ぜひ楽しみに待っていただければと思います。そちらでは読者の皆さんが『春琴抄』を知っている前提で話しますので、僕の発表する新説に興味がある方は本編を読んでお待ちください!